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解放戦争について

この背景には何があったのでしょうか。

解放戦争とシモン・ボリーバル

ボリーバルの最も優秀な部下だったアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍
カラボボの戦い何回かの失敗に終わった蜂起ののち、シモン・ボリーバルの指導の下で1821年にスペインからの独立を達成した。ベネズエラは現在のコロンビア、パナマ、エクアドルとともに大コロンビアを形成したが、1830年に分離して独立国になった。

1797年にフランス革命戦争の一環としてベネスエラ総督領のトリニダード島がイギリスに占領され、1802年には正式に割譲されるといよいよベネスエラにもヨーロッパの戦争が身近なものになってきた。 1806年に元スペイン軍の軍人で、ヨーロッパ各界の著名人と親交があったフランシスコ・デ・ミランダがベネスエラ独立のためにアメリカ合衆国から200人の義勇兵を率いて上陸した。この蜂起は失敗したが、スペイン本国にナポレオンのフランス軍が侵入して兄のホセ1世を国王に据えると、イスパノアメリカ植民地は偽王への忠誠を拒否した。

1810年5月カラカス市参事会はフェルナンド7世への忠誠を宣言し、7月5日にはベネスエラのスペインからの独立を宣言した。ここに解放戦争が始まった。 同年12月、シモン・ボリーバルはカラカス市参事会を代表して亡命していたミランダを連れ戻し、かくしてベネスエラ第一共和国が成立した。

しかし、1812年3月のカラカス大地震によりカラカスは大打撃を受け、市の2/3が崩壊すると解放軍の指導者に就任していたミランダにもスペイン軍を止めることは出来ず、 かかる状況下で降伏と亡命を主張したミランダはシモン・ボリーバルによってスペイン軍に引き渡され、カディスで獄死した。以降解放戦争の主導権は不屈の闘志を抱いたボリーバルに引き継がれることになる。

ボリーバルは現コロンビアのヌエバ・グラナダ連合州が支配していたカルタヘナに逃れて抵抗を続けた。 ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは1812年に崩壊したベネスエラ共和国を代表として抵抗を続けていた、シモン・ボリーバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリーバルも1813年にはベネスエラを再び解放するが、本国でのフェルナンド7世の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増した。連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致を突かれる形で1814年2月にはボゴタが陥落し、ナリーニョはスペインに連行され、投獄されてしまった。ボリーバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカに逃れた。1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2007年12月27日 20:39に投稿されたエントリーのページです。

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